トルストイの死生観:『イワン・イリイチの死』から考える生き方と死に方
レフ・トルストイは、『戦争と平和』や『アンナ・カレーニナ』といった不朽の名作を残したロシアの文豪として知られています。しかし、彼は単なる作家に留まらず、人間の生き方、社会のあり方、そして死という根源的な問いについて深く考察し続けた思想家でもありました。
特に、彼の晩年に書かれた短編小説『イワン・イリイチの死』は、死生観を考える上で非常に重要な作品です。この物語を通じて、トルストイは私たちに、いったい「本当の生」とは何か、そして「死」がその生にどのような意味をもたらすのかを問いかけています。
『イワン・イリイチの死』に見る「偽りの生」と死の直面
物語の主人公イワン・イリイチは、当時のロシア社会で成功者とされる人物でした。彼は出世を重ね、家庭を持ち、社会的な体裁や慣習に従って生きていました。周りから見れば、何不自由ない、模範的な人生を送っているかのように映っていたかもしれません。
しかし、病を得て死が確実に迫ってくるにつれて、イワン・イリイチはそれまでの自分の人生が、いかに空虚で表面的なものだったのかに気づき始めます。彼が価値を置いていた社会的評価や物質的な豊かさは、死の前では何の意味も持ちませんでした。周囲の人々が彼の病状や死を遠ざけようとする態度にも、彼は絶望を感じます。
トルストイは、このイワン・イリイチの姿を通して、多くの人々が送っているであろう「偽りの生」を厳しく批判していると言えます。それは、自分自身の内面と向き合わず、社会的な期待や他者からの評価のみを基準にして送られる人生です。
死は、この「偽り」の覆いを剥がし、人生の真実を白日のもとに晒す出来事として描かれています。イワン・イリイチは肉体的な苦痛だけでなく、それまでの人生の欺瞞に気づいたことによる精神的な苦しみにも苛まれます。しかし、その究極の苦悩の中で、彼は初めて真の「生」の光を見出すのです。それは、打算や体裁から離れた、純粋で本質的なつながりや感情です。
トルストイ自身の思想と死生観
トルストイ自身もまた、人生の途上で大きな精神的な危機を経験し、それまでの貴族的な生活や文学活動に疑問を感じるようになります。そして、キリスト教の原始的な教えに立ち返り、非暴力、質素な生活、肉体労働の尊さなどを説く独自の思想を深めていきました。
このような彼の思想は、まさに『イワン・イリイチの死』で描かれた「偽りの生」からの脱却と深く繋がっています。社会的な成功や名誉といった表面的な価値観を否定し、より根源的な人間のあり方や、隣人への愛といった普遍的な価値を追求することこそが、真に意味のある生き方であると考えたのです。
死は、トルストイにとって単なる終わりではなく、物質的なものや社会的な束縛からの解放であり、より高次の、あるいは精神的な世界への移行と捉えられていた側面もあります。彼の晩年、家出して旅に出た末に亡くなったという最期の出来事も、彼が最後まで慣習や体制に囚われず、自身の信じる道、あるいは死の迎え方を追求しようとした表れと見ることができるかもしれません。
彼の死生観は、生と死を対立するものとしてではなく、一つの大きな流れの中にあるものとして捉え、そして死という避けられない出来事を通して、今ここにある「生」の真実の輝きを見つめ直すことを私たちに促しているのです。
現代を生きる私たちへの示唆
レフ・トルストイが問いかけた「本当に意味のある生とは何か」という問いは、物質的に豊かになった現代社会においても、決して色褪せることはありません。むしろ、情報過多で他者との比較が容易になった現代において、私たちは知らず知らずのうちに、イワン・イリイチが陥ったような「偽りの生」を送りやすくなっているのかもしれません。
特に、人生の秋を迎える私たちの世代は、自身の健康や老い、そして死というものをより身近なものとして感じることが増えることでしょう。そのような時期に、トルストイの『イワン・イリイチの死』を読むことは、非常に大きな意味を持つと考えられます。
物語の主人公のように、死の間際になって初めて人生の空虚さに気づき、後悔するのではなく、トルストイの思想に触れることで、今この時から自身の「生」を深く見つめ直す機会を得られるかもしれません。本当に大切にすべきものは何か、自分自身の内面が求める生き方とはどのようなものか問い直すことは、残された日々をより充実させ、心穏やかに過ごすための大切な一歩となるでしょう。
トルストイの死生観は、死を恐れるのではなく、それを生の一部として受け入れ、死があるからこそ「今をどう生きるか」という問いが意味を持つことを教えてくれます。彼の文学と思想が、私たちの死への不安を和らげ、自身の死生観を深め、穏やかな気持ちで日々を送るための知的な洞察となることを願っております。