三島由紀夫の死生観:『豊饒の海』を通して考える『滅び』と『再生』
人生の終盤に差し掛かると、多くの方が自身の老いや死について深く考える機会が増えるものです。それは自然な心の動きであり、古今東西の思想家や文化もまた、この普遍的な問いに様々な角度から向き合ってきました。今回は、日本の作家、三島由紀夫の死生観に触れてみたいと思います。三島由紀夫は、その華麗な文体と行動、そして壮絶な最期をもって、日本の近現代史において異彩を放つ存在です。彼の作品には、「死」というテーマが強く刻まれています。
三島由紀夫と死へのまなざし
三島由紀夫は、戦後の日本という激動の時代を生きました。伝統的な価値観が揺らぎ、急速に西洋化・近代化が進む中で、彼は日本の伝統や美意識、肉体といったものに強い関心を持ちました。彼の思想の中核には、「美」と「死」が深く結びついています。彼は、完璧な美しさは、その頂点において滅びを迎えることで完成すると考えていた節があります。
若い頃から、彼は自身の内面にある死への憧れや、肉体と精神の乖離に苦悩しました。初期の自伝的小説『仮面の告白』にも、そうした内面が赤裸々に描かれています。しかし、彼は単に死に惹かれただけでなく、「生きる」こと、特に「行動」や「自己の完成」を強く希求しました。文筆活動のみならず、肉体を鍛え上げたり、自衛隊体験入隊をしたりと、様々な活動を通じて「生」を全うしようとしたのです。彼の死生観は、このように「死」と「生」、「美」と「行動」が複雑に絡み合ったものでした。
『豊饒の海』に描かれる『滅び』と『再生』
三島由紀夫の思想が集約されている作品の一つに、彼の最期を待たずに完結された大長編『豊饒の海』があります。この四部作は、主人公である本多繁邦という人物が、明治、大正、昭和と時代を生き抜く中で、清顕、勲、月光、そして安永という四人の青年たちの奇妙な転生を目撃するという壮大な物語です。
この物語の根底には、仏教思想における輪廻転生の概念があります。しかし、三島が描く転生は、単なる魂の生まれ変わりではなく、それぞれが破滅や死という形で「滅び」を迎える様が丹念に描かれています。清顕の死は若さゆえの破滅、勲の死は行動主義の果て、月光の死は虚無、安永の死は老いと病。それぞれの「滅び」は、彼らが抱える「生」の輝きや歪みを浮き彫りにします。
そして物語は、転生を目撃してきた本多が、最終巻『天人五衰』の終盤、物語の始まりの場所である綾倉家を訪れ、驚くべき事実を知らされるという形で幕を閉じます。そこで提示される「すべては何もなかった」という結末は、読者に強烈な衝撃を与えます。本多が見てきた転生、そしてそこに付随する「滅び」や「再生」の物語全体が、もしかすると幻であったかのように示唆されるのです。
これは単なる物語の終わり方ではなく、三島が死を前にして到達した一つの思想的な境地を示しているのかもしれません。私たちが必死に意味を見出そうとする「生」や、恐れ、あるいは惹かれる「死」、そして「滅び」や「再生」といった概念そのものが、突き詰めれば虚無の中にあるのではないかという問いかけです。それは、私たちが信じている現実の儚さ、そして人間存在の根源的な孤独をも示唆しているように思われます。
現代を生きる私たちへの示唆
三島由紀夫の死生観や、『豊饒の海』に描かれる世界は、一見すると難解で、私たちの日常からかけ離れているように感じられるかもしれません。しかし、彼の問いかけは、現代を生きる私たちにも通じる普遍的なテーマを含んでいます。
現代社会は、古い価値観が崩壊し、目まぐるしい変化の中にあります。私たちが大切にしてきたもの、築き上げてきたものが、あっけなく「滅び」ていくように感じられることも少なくありません。そうした中で、私たちは何に価値を見出し、どのように生きていけば良いのか、迷うことがあります。
『豊饒の海』が示唆する「滅び」と、そこからの「再生」(あるいは再生と思われたもの)の循環は、私たち自身の人生にも重ね合わせて考えることができます。例えば、仕事の終わり、子育ての終了、自身の体の変化など、人生には様々な「滅び」の局面があります。しかし、それは本当に終わりなのでしょうか。そこから新しい関係性や活動、内面の変化といった「再生」の芽が生まれる可能性もあります。
三島が美と結びつけて追求した死は、ある意味で「今」を究極的に生きることの裏返しでもありました。限りある生、いつか訪れる死を意識することは、今この瞬間をどのように過ごすかという問いにつながります。彼の思想の複雑さとは別に、人生の「滅び」を恐れるだけでなく、それを受け入れ、あるいはそこから何かが「再生」する可能性に目を向ける視点は、私たちが穏やかな気持ちで日々を送るためのヒントになるかもしれません。
三島由紀夫の死生観は、平易に語り尽くせるものではありませんが、『豊饒の海』という壮大な物語を通して、私たちは自身の「生」と「死」、「滅び」と「再生」について深く考えさせられます。彼の作品に触れることが、皆さま自身の死生観を育む一助となれば幸いです。