古今東西の死生哲学入門

ハイデッガーの死生観:『死への存在』が照らす『自分らしい生』

Tags: マルティン・ハイデッガー, 死生観, 実存主義, 存在と時間, 死への存在, 哲学

ハイデッガー哲学と死生観への誘い

マルティン・ハイデッガーは、20世紀を代表する哲学者のひとりです。彼の主著『存在と時間』は非常に影響力のある著作ですが、同時にその難解さでも知られています。しかし、ハイデッガーがそこで深く考察した「死」についての思想は、私たち一人ひとりの生や、自身の死生観を考える上で、非常に重要な示唆を与えてくれます。

哲学と聞くと身構えてしまうかもしれませんが、ハイデッガーが問いかけたのは、「人間とは何か」「私たちはどのように存在するのか」といった、誰もが漠然と抱える問いでもあります。特に、私たちが自身の老いや、いずれ訪れる死を意識し始める時、彼の思想は静かに心に響くかもしれません。

この記事では、ハイデッガーの哲学の中でも、特に「死への存在(Sein zum Tode)」という考え方に焦点を当て、それがどのように私たちの生に光を当てるのかを、できるだけ平易な言葉で解説してまいります。

「現存在(ダーザイン)」としての私たち

ハイデッガーは人間存在を「現存在(ダーザイン)」と呼びました。「そこに(Da)ある存在(Sein)」という意味ですが、これは単なる物理的な存在ではなく、自分自身のあり方を常に問い直し、様々な可能性に向かって開かれている存在としての人間を指しています。

私たちは過去を振り返り、現在を生きていますが、同時に常に「未来」へ向かっています。この「未来」の中で、ハイデッガーが特に重要視したのが「死」です。

「死への存在」とは何か

ハイデッガーにとって、死は私たちの生の外にある突然の終焉ではなく、生そのものに織り込まれた、常に私たちと共に存在する「可能性」でした。これを彼は「死への存在(Sein zum Tode)」と表現しました。

これは少し奇妙に聞こえるかもしれません。通常、私たちは死を遠ざけ、考えないようにしがちです。しかし、ハイデッガーは、死こそが私たちにとって最も確実な未来であり、誰にも代わってもらえない、自分自身だけの出来事であると指摘しました。私たちは他人の死を経験することはできても、自分自身の死を他人に経験してもらうことはできません。

この「私自身の死」という最も確実で、誰とも共有できない可能性に目を向けること、それが「死への存在」としてある私たちのあり方だというのです。

「世間」に埋没する生と「本来的な生」

ハイデッガーは、多くの人が日々の暮らしの中で、周囲の意見や社会の常識、一般的な価値観の中に埋没して生きていると考えました。これを彼は「世間(ダス・マン)」における「非本来的な生」と呼びました。そこでは、私たちは「世間の人たちがどうしているか」に合わせて行動し、「自分自身」を見失いがちになります。

しかし、「死への存在」を真剣に引き受けること、つまり、いずれ必ず訪れる自分自身の死という究極の可能性に目を向けることは、この「世間」から抜け出し、自分自身の固有の可能性、誰とも違う自分自身のあり方に向き合うきっかけを与えてくれます。

自分自身の死という逃れられない事実に直面することで、私たちは初めて「限りある時間の中で、自分は本当にどう生きたいのか」「自分にとって本当に大切なことは何か」を、世間的な価値観から切り離して問い直すことができるようになるのです。これがハイデッガーの言う「本来的な生」へと通じる道です。

現代を生きる私たちへの示唆

ハイデッガーの「死への存在」という思想は、特に人生の後半を迎えた私たちにとって、深い響きを持つかもしれません。老いや体力の衰え、そして死の可能性をより身近に感じるようになるこの時期に、彼の思想は、私たちに自身の生を改めて見つめ直す機会を与えてくれます。

死を単なる終わりとして恐れるのではなく、それが自身の最も確実な可能性として常にあることを意識すること。それは、残された時間をいかに意味深く、いかに自分らしく生きるかという問いに、真剣に向き合うよう促します。

「本来的な生」を生きるとは、何か特別なことをすることだけを意味しません。それは、たとえ日々の小さな営みであっても、それを「自分自身の生」として引き受け、納得のいく形で生きることを目指す姿勢でもあります。友人との語らい、趣味に没頭する時間、家族との触れ合い、静かに自然を感じる瞬間。そうした一つ一つが、自身の有限性を意識する中で、より一層輝きを放つものとなるかもしれません。

ハイデッガーの哲学は確かに難解ですが、彼の「死への存在」という考え方は、死を避けるのではなく、むしろ意識することで、今ここにある私たちの生が、より色彩豊かで自分らしいものになる可能性を示唆していると言えるでしょう。それは、死への不安を完全に消し去るものではないかもしれませんが、死という事実を冷静に見つめ、残りの人生を穏やかで充実したものとして受け入れるための、一つの確かな手がかりを与えてくれるのではないでしょうか。